都立横網町公園には、震災・戦災のメモリアルパークとして歴史的な建造物および記念碑が数多く保存されています。
この公園には、下町の貴重な緑のオアシスとして、毎日多くの方々が訪れています。日本庭園の散策や子どもの遊び場での交流など多くのみなさまにご利用頂いておりまして、気軽に憩い、楽しめる場所でもあります。
首都直下型地震が危惧され、世界の各地で今なお戦禍による犠牲者が絶えない時代、今一度関東大震災や東京大空襲の惨禍を思い起こし、防災意識と平和への願いを再確認する場として、本公園をお訪ねくだされば幸いです。
東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
写生会
春の祈念碑花壇
第二次世界大戦で、東京は、昭和17年(1942年)4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年(1945年)8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲となりました。
こうした東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するため平成13年(2001年)にこの碑を建設しました。
この碑の建設に当たっては、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の呼びかけにより、多くの方々から寄付が寄せられました。
斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。
毎年、大法要の行われる東京大空襲の3月10日と関東大震災の9月1日には、内部を公開しています。
震災遭難児童弔魂像(しんさいそうなんじどうちょうこんぞう)
初代震災遭難児童弔魂像
弔魂像とツバキ
関東大震災により、東京市(当時)内の小学校児童約5千人が亡くなりました。その死を悼み、冥福を祈るため、当時の学校長等が中心となり、弔魂碑建立を企画し、寄付を募りました。それに共鳴する方々が、18万2,027名におよび、その寄付金は、1万4,066円47銭にも達しました。
その基金で、彫刻家小倉右一郎氏に製作を委託し、完成後当時の財団法人東京震災記念事業協会に寄付し、その後東京都に引継がれたものです。
なお、この「悲しみの群像」は、昭和19年(1944年)第2次世界大戦たけなわのころ、戦力増強の一助として、金属回収の対象となり撤去され、台座だけがむなしく残されていましたが、昭和36年(1961年)に当初の作者、小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一の両氏によって、往時の群像を模して、再建されました。
幽冥鐘(ゆうめいしょう)
幽冥鐘(鐘楼)
幽冥鐘(刻印)
この梵鐘は、関東大震災により遭難死した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺および上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。
また、各方面の回向が終わったのちは、「幽冥鐘一隻を鋳造して、これを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。その後、日を経るに従い災情が甚大であることが明らかになったので仏教普済日災会の代表2名が来日し、京浜両地区の慰問を行ない、これと同時に我が国の外務大臣並びに仏教連合会に梵鐘の寄贈を申し出たものです。
その後、震災記念堂の計画確定によりこの鐘を横網町公園に安置することになりました。中国国内で鋳造された鐘は、杭州から上海、横浜経由で大正14年(1925年)11月にこの地に運ばれました。
また、この鐘を安置する鐘楼は、震災記念堂(現:東京都慰霊堂)の設計者でもある伊東忠太氏の設計といわれ、昭和5年(1930年)8月に竣工し、同年10月1日に「梵鐘始撞式」を行いました。
なお、この一連の事業の遂行にあたっては、実業家、政治家であり書画家でもあった上海の王一亭氏の特段の尽力がありました。
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
朝鮮人犠牲者追悼碑
関東大震災時の混乱のなかで、あやまった策動と流言ひ語により尊い命を奪われた多くの朝鮮人を追悼し、二度とこのような不幸な歴史を繰り返さないことを願い、震災50周年を記念して昭和48年(1973年)に「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」により立てられた碑です。
永田秀次郎氏記念句碑
永田秀次郎句碑
この句碑は、震災時に東京市長として救援救護活動を陣頭指揮すると共に、その後の復興事業に心血を注いだ永田秀次郎氏の業績を讃えて、氏が震災後詠んだ句を刻んだものです。
「焼けて直ぐ 芽ぐむちからや 棕梠の露」
句碑は、永田秀次郎氏記念句碑建設有志により昭和27年(1952年)9月1日に建てられました。
永田秀次郎は、兵庫県淡路島の出身、後藤新平からの信頼が厚く、後藤の後任として東京市長に就任しますが、その数ヶ月後に関東大震災に遭遇します。震災後は罹災者の援護や犠牲者の追悼に心を砕く一方、復興にも後藤と協力して取り組んでいます。その風格や話術、俳人としての面などから多くの市民に親しまれたと言われています。
日本庭園
慰霊塔とサクラ
冬の風物詩マツの雪吊り
アオサギ飛来
緑の中の石橋
静かな水面
慰霊堂の北側約700坪(約2300m²)の地域は、林泉式(りんせんしき)日本庭園としています。これは震災時、清澄庭園や安田庭園など都内の庭園が、人命の保護に役立ったことを教訓として計画されたものです。当初の設計は造庭家 平山勝蔵氏(1899~1990)で、後に東京農大教授となり水禽窟(すいきんくつ)の研究者として有名です。
当時の記録によれば、「池水周辺の樹林は、シイ、カシの常緑広葉樹とその他花木を配し、林間を逍遥する園路は、慰霊堂の背面広場から北門に通ずるよう、池は流れを3分し、その池縁に岩組、中洲には、マツその他を植栽し、春日・雪見燈篭を配し、ひとつのまとまりのある空間に仕上げた」としています。樹木など植栽材料は、その多くを寄付に頼りました。なお、平成3年(1991年)に池水を循環式にするなど大改修工事を実施しました。現在の岩組みはこの時のものです。
子供の遊び場
人気の複合遊具
子どもの遊び場全景
正面入口を入って右側に子どもの遊び場があります。地域の子どもたちが安心して遊べるよう、平成16年度(2004年度)、復興記念館前の広場を改修整備した際に設けられました。さまざまな遊び方が出来る複合遊具と砂場が備えられています。家族連れや子どもたちでいつも賑わい、地域の交流の場ともなっています。
石原町・緑町震災戦災追悼碑
石原町・緑町震災戦災追悼碑
日本庭園内四阿(あずまや)近くには近隣町会の震災戦災追悼碑があります。その一つ「大正大震火災石原町遭難者碑」は大正14年(1925年)9月に作られ、その後昭和6年(1931年)に公園内に移設されたものです。碑文には、震災後の大火災では、本所、深川、両区の被害が最も甚だしく、石原町においても当時の町民約8千人のうちおおよそ7千人が亡くなったと具体的な被害状況が記されています。
そのほか、緑町三丁目町会の碑、戦災死没者墓誌などがあります。