都立横網町公園は慰霊と伝承の公園です。
大正11年(1922年)、東京市は、陸軍被服廠(ひふくしょう:軍服などを作る工場)の移転に伴い跡地を買収し、公園の造成を進めていました。その最中に発生したのが、翌12年(1923年)9月1日の関東大震災です。まだ空き地状態だった被服廠跡に周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、続々と避難してきたのです。
ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻、火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで、3万8千人もの尊い命が失われました。
関東大震災の死者は、当時の東京府市合わせて7万人を超えるといわれています。この諸霊を弔慰するため四十九日に相当する大正12年10月19日に、この地において東京府市合同の大追悼式を挙行したのが、この公園の歴史を刻む最初の出来事でした。
翌大正13年9月1日、東京府市合同で震災殃死者一周年祭並びに法要が行われ、以来絶えることなく今日まで続けられてきました。
当初「大正震災記念公園」と仮称された公園でしたが、昭和5年(1930年)には、慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼、日本庭園が、時の皇室から庶民までの尊い寄付を受けて完成し、9月1日、横網町公園として開園しました。翌年には、復興記念館も完成し、ほぼ現在の横網町公園のかたちが出来上がりました。
このあと東京は、関東大震災から見事に復興を果たしたかに見えましたが、それもつかの間、昭和16年(1941年)アメリカとの間で太平洋戦争の火ぶたが切られたのです。太平洋戦争下における空襲による都内犠牲者の数は、死者・行方不明者を合わせて10万人をはるかに超えています。その中でも昭和20年(1945年)3月10日未明の東京大空襲は、下町地域に大きな被害をもたらしました。昭和26年(1951年)、東京空襲遭難者の仮埋葬遺骨の改葬が終了し、身元不明者10万5千人を震災記念堂に合祀することとなりました。これによって、震災遭難者約5万8千人と合わせて16万3千人の遺骨を祀ることとなり、名称も東京都慰霊堂と改称しました。
毎年関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に遺族をはじめ、皇族方のご臨席を仰ぎ、関係各方面から来賓の参列を得て、春秋の慰霊大法要を開催しています。
平成13年(2001年)には、花壇と一体となった「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が建設され、園内が華やかになりました。
また、慰霊堂は平成28年(2016年)3月に、復興記念館は平成31年(2019年)3月に、それぞれ耐震補強工事を終えています。
- 名称
- 都立横網町公園(とりつよこあみちょうこうえん)
- 種別
- 風致公園
- 都市計画
- 隅田川公園
- 開園日
- 昭和5年(1930年)9月1日
- 開園面積
- 19,579.53m²
東京都慰霊堂
清澄通りから黄葉
鯉のぼりと慰霊堂
お花見
横網町公園園内マップ
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